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zoom RSS 新・神田川遡行 9 御茶ノ水駅界隈

<<   作成日時 : 2015/05/12 11:55   >>

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画像画像昌平橋から聖橋へ向かうには神田川(仙台濠)の北側の相生坂を上れば途中右手に昌平坂を見ることができます。また南の淡路坂を通れば聖橋手前の太田姫神社元宮を見逃すことはありません。
さて今日4月13日は神田川逍遥会の遡行二日目でM1さんとNさんはあいにく都合がありましたが、ただNさんは反省会には駆けつけるそうです。予定通り御茶ノ水駅聖橋口に集合しましたがあいにくの雨です。しかもただの雨ではなく本降りなのです。が、誰も中止しようと言わないのがむしろじゅうぶんに生きてきた高齢者の強みなのかもしれません。


聖橋
本郷通を渡す聖橋。いつ見てもこの巨大アーチ橋には圧倒されます。
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聖橋の橋上北寄りに「聖橋由来」の碑が建てられています。
聖橋は、東京市により関東大震災の復興橋りょうとして、
総工費72万4807円で2年8か月の歳月を要して昭和2年7月に完成した。
神田川の美しい景観の中にあってこの橋のデザインには、特に気を使い、
橋長92.47m、幅員22mのモダンなアーチ橋が架けられた。
橋名の由来は、北側にある国指定の史跡で江戸幕府の官学所『湯島聖堂』と、
南側にある国指定の重要文化財でビザンチン風の建物『日本ハリストス正教会復活大聖堂』(通称ニコライ堂)の両聖堂にちなんでいる。
聖橋は、近くの鋼ラーメンの御茶ノ水橋、アーチの昌平橋、万世橋とともに
「東京の著名橋」に選定され、神田川の名所となっている。
平成4年3月東京都

太田姫神社元宮
実に興味深いスポットです。
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画像聖橋南詰には大きな椋の木が御茶ノ水駅ホームと聖橋を見下ろしています。このご神木が「太田姫神社元宮」ですが、たいそう簡素なものですから駿河台下に遷された「太田姫神社」がかつてここにあったことを説明しているだけの役割のように思われます。
こんな書きつけが張り付けてあります。落書き風の短文でありますが、たいへん奥の深い大切なことが記されています。
一口(いもあらい)である太田姫神社は江戸城外堀を作るにあたり伊達家と徳川家が神田山を開削した時、江戸城の結界または鬼門の守り神として旧江戸城よりこの地に移された。
昭和6年総武線開通に伴い現在の駿河台下に移る。なお鉄道(中央線の前身である甲武線)は濠の中にあり開通時天皇家との間に濠幅を減じない中で商業を営まない環境を守るとの約束がある。
 「いもあらい」という名称は昌平橋の過去の呼名としてありました。
では「一口(いもあらい)太田姫神社とは何なのでしょうか。駿河台下に遷されたという「太田姫稲荷神社」を訪ねてきました。それにしても天皇家と甲武鉄道との約束事は実に面白いですね。

太田姫稲荷神社

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京都の東南、山城国の一口(いもあらい)の里に9世紀に始まる小野篁にまつわる縁起に由来する「宇迦之御魂神」を祭神とした一口稲荷神社があった。穢(けがれや災い)も洗い清めてくれるということから「えもあらいいなり」と呼ばれ近在の信仰を集めていた。
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江戸の開祖として知られる太田資長朝臣(のちの道灌)の最愛の姫君が重い疱瘡にかかり、絶望の中、人伝に一口稲荷神社の故事を聞き祈願したところ病が癒えたという。道灌は城内本丸に稲荷神社を祀った。しばらくのち鬼門を守るべしとの神託があり、鬼門に移して太田姫稲荷大明神と奉唱するようなった。長禄元年(1457)のことである。
慶長11年(1606)の大改築の際西の丸の鬼門に当たる神田駿河台東側に移されこの坂を一口坂(いもあらいざか 後に鈴木淡路守の屋敷ができたので淡路坂ともいう)と呼ばれた。その後歴代将軍が崇拝し修理造営は徳川家が行ったと伝えられている。昌平橋から淡路坂が参道であった。だから(聖橋はなく)下流の昌平橋が一口橋(いもあらいばし)と呼ばれる。
現在の地に移ったのは昭和6年(1931)御茶ノ水駅と両国駅間の総武線建設のため鉄道省より換地として指定され、一切の建築物をそのまま移転した。
祭神は「宇迦之御魂神」、五穀の神でその上「穢もあらう」ということは、病を癒し災いを除け、家内安全、商売繁昌の神でもあると思われます。
又、菅原道真公、徳川家康公が合祀されていることにより、文武の神でもあります。
この神社の紋は太田道灌にちなんで、その家紋であります「太田桔梗」以って今日にいたっている。

ニコライ堂(正式には東京復活大聖堂)  
神田川逍遥会のメンバー全員が「ニコライ堂」をまじかに見たことはあった。ところがこの建築を見学したものはおろか敷地内に入ったものはいなかったのです。ここの聖地についてはおそらく東京人のほとんどが同類なのではないだろうか。正式名称や正教について誤解の多い仲間だったが、今回丁寧な説明を受け目からうろこの思いでした。
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宗教に誤解はつきものだと思うのだが、なるべく本教会の正式説明を引用して説明してみましょう。
名まえの意味
ニコライ堂は、正式名称を東京復活大聖堂と言います。
通称の「ニコライ堂」は、日本に正教を伝道した亜使徒聖ニコライに由来しています。
聖堂の正式名称にある「復活」は、真の神でありかつ真の人である主イイスス・ハリストス(イエス・キリストのギリシャ語読み)の復活と、それによって人に与えられる復活の生命を記憶しています
「記憶する」という表現が使われる。正教会の聖堂は聖書に記された出来事やイイスス・ハリストス、生神女(一般にいう聖母マリア)あるいは聖人など何らかの記念を伴う。本聖堂の場合は正式名称が示す通りイイスス・ハリストスの復活が記念されている。
ニコライ堂は正教会の教会です
ニコライ堂は、ギリシャ正教とも東方正教会とも呼ばれる、正教会の教会です。正教会は、「東方正教会」もしくは「ギリシャ正教」とも呼ばれます。使徒たちによる初代教会の時代から、神の啓示に基づく聖伝による生活を継承してきた教会です。正教は特定の国、民族だけのものではありません。正教会は全ての人を救いに招いています。正教会は一ヵ国に一つの正教会組織を作ることが原則となっています。ロシア正教会、グルジア正教会、ブルガリア正教会、セルビア正教会、ギリシャ正教会、ルーマニア正教会などがあります。これらの諸正教会の運営・財政は、それぞれ自立・独立していますが、教えの内容は全く同じです。

「正教会の大聖堂」と呼称するのは正しいが、主にロシア連邦・近隣地域を管轄する一独立正教会の組織名「ロシア正教」「ロシア正教会」を用いて「ロシア正教会の聖堂」と述べるのは誤りである。「ギリシャ正教」は教派名としても用いられるため、「ギリシャ正教の聖堂」と呼ぶことはできる。
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このすばらしい聖堂は、高さ約34.5メートル、鐘楼の高さは約37.7メートル、建坪は約1,050uあります。
ニコライ堂とは、この堂を建てたニコライ大主教の名前をとった呼称で、正しくは日本ハリストス正教会教団東京復活大聖堂といいます。
建築の様式は、ビザンチン式が基本で、壁が厚く窓が小さく、中央にドームがあり、外からみると壮大で堅牢です。細かい部分にイギリスのロマネスク風やルネッサンス式が巧みに取り入れられているのは、イギリス人のジョサイア・コンドルが工事監督にあたったからでしょうか。
そもそもこの大聖堂が建てられた駿河台の場所は、江戸時代は定火消の屋敷跡で、火の見櫓が高くそびえており、ニコライがはじめて、明治5年(1872)に東京に来たい際、この地に大聖堂と心に決めた所で、ロシア国公使館の付属地でもありました。
最初の大聖堂は、ロシア人、シュチュールボフの基本設計、コンドルの監督設計、長野泰輔の工事責任で、明治17年(1884)に工事が始まり、約7年かかって明治24年(1891)に完成しました。
(「おはなし千代田」(千代田区教育委員会)より」

画像聖堂内には荘厳なイコンがいくつも掲げられています。ハリストス、マリヤ、聖書に登場する聖人たち、聖書の中の場面などです。イコン(ICON)とは「天国の窓」とも呼ばれてイコンをつうじて神、聖人に祈ることのできる扉の入り口なのですね。
メンバーのWさんは存じ上げなかったことだがロシア語に通じていて、IT用語のアイコンとはICONであり、たたけば開かれん………なのだとおっしゃたのにはビックリしました。納得!

ところで右上解説パンフレットに書かれた八端十字という十字架も初めて知るところのものでした。

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八端十字架とは、一般の十字に比べて二本の線が多い形状をしており、八か所の端があることからその名があります。上部は罪人の罪状を記すもので「ユダヤ人の王・ナザレ人イイスス」と書かれています。下部の斜めの板は足台を象徴しています。正教会の伝承では十字架に足台があったとされています。長く罪人を固定して生かし続け、苦しみを引き伸ばすためのしつらえだった。イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)が磔にされた同日に、その左右に泥棒が一人ずつ十字架に磔にされていました。一人の泥棒は、ハリストスをののしりました。もう一人の泥棒は、ハリストスに許しを請い祈った。この右側の泥棒はこの痛悔によって天国を約束されました。それが下部横木の上下に表れているのだそうです。

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高田屋嘉平とニコライ大主教
日露外交史の重要な一ペ−ジにゴローニン事件がある。ロシアの海軍士官ゴローニンがディアナ号の艦長として北太平洋の測量中,1811年千島列島の国後島で幕府の警備軍に捕らえられ,2年2カ月余にわたって松前で幽閉生活を余儀なくされた。しかし,副艦長のリコルドと高田屋嘉兵衛の協力により無事釈放され,帰国後その体験を『日本幽囚記』(1816)と題して出版した。このなかでゴローニンは,すぐれた日本人論を展開する。
ニコライはサンクトペテルブルク神学大学在学中にゴローニンの『日本幽囚記』を読んで日本人へ好感を抱き、その地での伝道を志したといわれる。箱館(函館)でニコライは職務をこなしながら、日本の言語や歴史、宗教など旺盛な研究を進め、そして自分を遠い異郷へ導くきっかけとなった日本人、高田屋嘉兵衛のことを尋ねて回った。その手には、『日本幽囚記』に収録された嘉兵衛の肖像画写真があった。
高田屋嘉平と聖ニコライ大主教の縁は劇的でした。

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聖橋を南から北へ渡る。雨の勢いはやまない。橋を渡れば右側にもう一つの聖堂、『湯島聖堂』がある。
右写真。聖橋より昌平橋を眺望する。地下鉄丸ノ内線、昌平橋を渡るのが総武線、右手にカーブする中央本線。左に湯島聖堂が見える。

湯島聖堂 
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孔子はBC500年のころ中国・魯国、昌平郷に生まれた(山東省曲阜市)。儒学に傾倒した五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移した。「大成殿」や「学舎」。自らも「論語」の講釈を行うなど奨励に努めた。その後、およそ100年を経た寛政9年(1797)、幕府は学舎の敷地を拡げ建物を改築し孔子の生まれた地名をとって「昌平坂学問所」を開いた。。学問所は明治維新(1868)に至るまで70年間官立の大学として江戸時代の文京センターの役割を果たしたのである。

明治維新、学問所は政府所管になり、ここに明治4年(1871)文部省が置かれた。林羅山以来240年、学問所となってからは75年の儒学の講筵は、ここにその歴史を閉じた。ついでこの年わが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれ、翌5年(1872)には東京師範学校、わが国初の図書館である書籍館が置かれ、7年(1874)には東京女子師範学校が設置され、両校はそれぞれ明治19年(1886)、23年(1890)高等師範学校に昇格したのち、現在の筑波大学、お茶の水女子大学へと発展していった。かくしてこの地は近代教育発祥の地ともいわれている。
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(雨が激しくカメラ操作が不自由で右の写真は当日のものではない)

湯島聖堂・大成殿
瓦葺屋根の大棟の両端につけられた火除けのまじないである鴟尾が面白い。この霊獣はシャチホコの類だろう。ふつうは虎頭(だから鯱)だがこれは龍頭で、頭から水が噴き出ています。これらは鋳銅製で、寛政11年(1799)当時のものである。



現在、構内に建てられている世界一大きい孔子像は、1975年(昭和50年)に中華民国台北ライオンズクラブから贈られたものである。

ここにはなんどか来たことはあるのだが、そのたびに「昌平坂学問所跡地」を探すが一向にそれらしいものが見当たらないのだ。今回、ようやく謎が解けた。古地図と照らし合わせれば敷地としての学問所の跡地は、そのほとんどが現在東京医科歯科大学湯島キャンパスとなっていたのです。






さて次に お茶の水橋  に向かいました。
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画像駅の名前は「御茶ノ水」と全て漢字で表記されるが、橋の名前と地名は「お茶の水」と書かれる。
現在のお茶の水橋は、ラーメン橋+ゲルバー桁(鋼)であるが、明治24(1891)年に架けられた当時のお茶の水橋は、建築家の原竜太(はらりゅうた)設計による上路プラットトラス方式の橋であった。

お茶の水橋の南詰交番脇に『お茶の水の命名由来の碑』があるのでこれは見逃せません。
聖堂の西比井名水にてお茶の水にもめしあげられたり 神田川掘割の時ふちになりて水際に形残る 享保十四年江戸川拡張の後川幅を広げられし時 川の中になりて 今その形もなし (再校 江戸砂子 より)
慶長の昔、この邊り神田山の麓に高林寺という禅寺があった ある時寺の庭より良い水がわき出るので将軍秀忠公に差し上げたところお茶に用いられて大変良い水だとお褒めの言葉を戴いた。それから毎日この水を差し上げる様になり この寺をお茶の水高林寺と呼ばれ、この邊りをお茶の水と云うようになった。其の後、茗渓又小赤壁と稱して文人墨客が風流を楽しむ景勝の地となった。時代の変遷と共に失われ行くその風景を惜しみ心ある人達がこの碑を建てた。
お茶の水保勝会 坂内熊治
高林寺    田中良彰
昭和三十二年九月九日


ところで名の知らぬ者はいない「お茶の水」であるが、これは呼名に過ぎず、行政上の地名としては存在しないんですね。

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千代田区町名由来板 「駿河台西」
千代田区は文化財のPRにかなり経費をかけているのですね。でもこのような説明を要所要所に設置していることは大変いいことだと思います。この標識はお茶の水の由来碑傍にあります。
高台である「駿河台(するがだい)」は元来、本郷(ほんごう)・湯島台(ゆしまだい)と地続きで、その南端に位置し、「神田山(かんだやま)」と呼ばれていました。江戸に幕府を開いた徳川家康は、新たな町づくりのため、この神田山を切り崩し、江戸城の南に広がる日比谷入江(現在の日比谷公園、新橋周辺)を埋め立てました。しかし、埋め立てによって、それまで海に流れ込んでいた平川(神田川のもとになった川)の流れがとどこおり、下流で洪水が頻発(ひんぱつ)するようになりました。そこで現在の飯田橋付近から隅田川まで、分流としての水路を確保し、あわせて江戸城の外堀(そとぼり)の役目も果たす「神田川」が開削されたのです。こうしてこの界隈(かいわい)は、本郷・湯島台から切り離され、現在の駿河台が形成されました。
さて、家康が駿府(すんぷ)で没した後、家康付(いえやすづき)を解かれ、駿河から帰ってきた旗本(はたもと)(駿河衆(するがしゅう))たちが、江戸城に近く富士山が望めるこの地に多く屋敷を構えました。駿河衆が住んでいたことや駿河国の富士山が見えたことなどから、この地は駿河台と呼ばれるようになり、多くの武家屋敷が立ち並ぶ地域となりました。
江戸時代初期には、奈良奉行を勤めた旗本中坊長兵衛(なかのぼうちょうべえ)、また、幕末には勘定奉行(かんじょうぶぎょう)や軍艦奉行(ぐんかんぶぎょう)を勤めた小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)などが居住していました。明治になると、武家屋敷の跡地が華族や官僚などの屋敷に変わり、加藤高明(かとうたかあき)男爵邸、坊城俊長(ぼうじょうとしなが)伯爵邸、小松官邸などいくつかの邸宅は昭和の初期まで残っていました。(一部省略)

お茶の水橋の前後、いまこのあたりから流れを見下ろしても「渓谷」を実感するが、神田川仙台濠で最も深いところにあたり、江戸時代には橋がなかったこともあり、まさに「小赤壁」といわれる景勝の地であったろうと想像できます。
濠の外から遠望すれば武家地と寺社地を見通せたでしょう。明治以降は住宅地、商業地として発展、そのためにこの橋が架けられたのです。

画像歌川広重 名所江戸百景 『水道橋 駿河台』


これはお茶の水橋近くの本郷台地の高台より旗本・御家人屋敷がびっしり並ぶ飯田町あたりを俯瞰している。端午の節句ですが、武家地には幟はあるが、鯉のぼりはありません。江戸の中頃になると武士の幟旗や吹流しに対抗して、町人の間で紙や木綿などの鯉のぼりが盛大に飾られた。鯉が滝を登ると龍になるという中国の故事「登龍門」からめでたい出世魚とされ、男子の無事生育を祈る初夏の風習として今日まで連綿と受け継がれている。大きな鯉のぼりが神田川に架かる水道橋を見下ろす奇抜な構図である。錦鯉の普及は明治以降で、黒い真鯉のみが裕福な町家に飾られていた。武家地に鯉のぼりは見られず、廣重は武家地に見える先祖伝来の幟旗を見下すかのように町人の鯉のぼりを大きく描いている。

雨が降りしきる。予定外ながら、「東京水道歴史館」に立ち寄り休憩をとることにしました。そのあとぼちぼちと水道橋に向かいます。



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