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zoom RSS 新・神田川遡行 11  水道橋・後楽橋・小石川橋

<<   作成日時 : 2015/05/13 20:16   >>

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画像水道橋
神田川で11番目の橋だ。かつて「吉祥寺橋」と呼ばれている時代があったと言います。現在文京区本駒込にある吉祥寺が、天正19年(1591)から明暦の大火(1657年)で燃えるまでの間、水道橋北詰にあったことによるらしい。中央線に「吉祥寺駅」がありますが、あの一帯に吉祥寺というお寺は今も昔もありません。明暦の大火のあと、元吉祥寺周辺の住民たちが移住しそこを吉祥寺村と名付けたのです。

既述のとおり、北詰欄干には、「江戸名所図会」の「お茶の水」の図を彫った銅版が埋め込まれています。

画像お茶の水分水路
既述の「神田上水懸樋(掛樋)跡」と隣り合わせに「お茶の水分水事業」を記念した「お茶の水分水路」の巨大な石碑がありましたが、水道橋からその分水路呑口を見ることができます。吐口は昌平橋と万世橋の間。これは河川の氾濫を防ぐ防災バイパスです。神田川にはこれからの上流にもいくつか分水路がありますが、こんな立派な記念碑があるのはここだけのように思います。
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このあたり川面近くまで降りられる崖沿いの遊歩道があった形跡がみられますが、いまは道路沿いに親水公園風の意匠があります。





ちょっと寄り道してあの丸橋忠弥ゆかりの忠弥坂

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水道橋北詰外堀通りを渡った右に「忠弥坂」と呼ばれている坂道がある。
標識によると
「忠弥坂 本郷1〜2と6の間」
坂の上あたりに丸橋忠弥の槍の道場があって、忠弥が慶安事件で捕えられた場所に近いということで、この名がつけられた。
道場のあった場所については諸説ある。
慶安事件は忠弥が由井正雪とともに、慶安4年(1651)江戸幕府の転覆を企てて失敗におわった当時の一大事件であった。
忠弥の名は、浄瑠璃や歌舞伎の登場人物としても有名であった。

郷土愛をはぐくむ文化財
東京都文京区教育委員会 平成元年3月
丸橋忠弥は江戸城濠の深さを測るため石を投げ入れてその音の変化を聞き取ったのだが、その様子を不審がられ、捕えられるという講談であったなぁ。

画像なるほど三崎町という町名は江戸前島の岬(ミサキ)に由来するのだ!
千代田区町名由来板 「三崎町一丁目」

水道橋南詰にあります。
三崎町(みさきちょう)という町名が誕生したのは明治五年(1872年)のことです。江戸に幕府が開かれる以前、この地にあった「三崎村(みさきむら)」が町名の由来といわれています。江戸が開発されるまで、現在の大手町から日比谷や新橋周辺には日比谷入江と呼ばれる遠浅の海が広がっていました。三崎村は、日比谷入江に突き出した「ミサキ(岬)」だったため、この名が付いたと伝わっています。
閑静な武家地であった三崎町は、明治も中ごろを過ぎると劇場や飲食店が増え、賑やか(にぎやか)な歓楽街へと生まれ変わります。隣町の三崎町二丁目(みさきちょうにちょうめ)には三崎三座(みさきさんざ)と呼ばれる三つの劇場ができるなど、周辺も活気にあふれる街でした。(一部省略)


古地図にもある古くからの神社だ。三崎稲荷神社
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創建は詳らかでない。鎌倉時代初期の建久年間(1190年〜1199年)よりも前とも伝わっており、歴史ある神社。江戸時代には、三代将軍家光が自ら三崎稲荷を崇敬するばかりでなく、参勤交代の大名たちにも信仰させたことから、参勤登城する大名は必ず、まず三崎稲荷に参拝し心身を清めた。ここから三崎稲荷は「清めの稲荷」とも称されている。
創建当初は和田倉付近にあり、その後三崎村に移転、万延元年(1860)講武所の設置に伴って水道橋に移転し、甲武鉄道(現JR中央線)が万世橋まで延長されたのに伴い明治38年(1905)現在の地移った。

わたしらの年代は「お茶の水といえば汚わい船」と連想が下品な奴が多い。たぶんお茶の水橋あたりから神田川を眺めた記憶でしょう。いまでも「千代田区千代田清掃事務所三崎町中継所」が川沿いビルにある。当時は東京のし尿をここで集約し、タグボートにひかせた汚わい船で神田川を下っていったのだろう。

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後楽橋
関東大震災の復興橋の一つで、昭和2年(1927)11月2日に架設。現在では、後楽橋の東側に沿って歩道橋もでき、外堀通りを越えて後楽園方面に直行できます。人通りはこちらのほうが圧倒的に多い。
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小石川橋
この橋の正面にあるビルの後ろに小石川後楽園(かつての水戸藩上屋敷)が広がっています。
新・神田川遡行 番外編 ・花見三昧 「散策 小石川後楽園・江戸川公園界隈」 を参照ください


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小石川見附門
古い写真の門が小石川見附門あるいは小石川御門。この門は水戸様御門とも呼ばれ、備前国岡山藩主の池田光政が築いた。寛政4年(1792)焼失後は渡櫓門を設けていない。この門外は徳川水戸家28万石二代藩主光圀のいた八万坪の上屋敷。門内の甲武鉄道飯田町駅があった見附内の一帯は、讃岐国高松藩の松平家の中・上屋敷。高松藩祖の頼重は水戸藩主頼房の長男で本来ならば水戸藩主であったが、父の頼房が二人の兄(尾張家・紀州家)より先に世継ぎの頼重をもうけたことに遠慮して、弟の光圀に二代目藩主の座を譲ったと伝えられている。明治36年(1903)に埋め立てられていた飯田町部分の水路が再び掘削され、小石川橋が神田川と日本橋川の合流地点となった。

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小石川橋からJR高架を眺めると見附門の石垣跡らしい石積があるが、真偽不明。
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古地図に「市兵衛河岸」とあるが文京区の標識に次の説明がある。
旧市兵衛河岸
小石川橋北側の神田川(外堀)の河岸一帯で、水道橋から船河原橋までの河岸地である。『江戸砂子』(享保17年.1732)に、牛込御門の外なり、岩瀬市兵衛の屋敷あるゆえにいうとある。この市兵衛からとった。神田川の昌平橋とのあいだを往復する客船の船着き場でもあった。また荷物を岸にあげる物揚場があった。東京砲兵工廠のあってころは工廠用の貨物が揚げ降ろしされた。

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小石川橋から下流を見ると
正面の橋は後楽橋。右手に分流・日本橋川の入り口が見える。そこに架かる橋は三崎橋。
外堀は「の」の字の形をして城郭都市を囲んでいます。そう考えれば始点はここ小石川橋付近の分流口となりますね。ぐるりと右回りしてここに戻り、終点は神田川河口となります

ところで正面に見えるのは「千代田区千代田清掃事務所三崎中継所」ビルですが、いつもタグボートが係留されています。昔は汚わい船がここから出ていったのでしょうが、いまでもごみ処理場なのでしょうか。

雨に濡れっぱなしでしたが、ここから飯田橋まで歩き、見物はそこそこにして高田馬場へ。反省会は居酒屋で。





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