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zoom RSS 新・神田川遡行 14 中之橋から江戸川橋

<<   作成日時 : 2015/06/22 21:26   >>

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中之橋界隈
新白鳥橋に続く19番目の橋がこの仲之橋だ
現代地図にも名前が表示されていない地味な橋だが、隆慶橋と石切橋の間で古地図には「中橋」とある江戸時代からの歴史をのこす橋だ。

橋の南詰に案内板がある。

「中之橋の由来
この橋の架けられた時期は明確ではありませんが、江戸初期に(1670年ごろ)刊行された「寛文江戸図」の中には無名ながらこの橋を見つけることができます。当時はまだ現在のようにたくさんの橋はなかったのでこの橋が下流側の隆慶橋と上流側の石切橋の間にあることになり、「中之橋」と名が付けられたといいます。明治中期ごろ、この橋を挟む両岸一帯に桜が植えられ、明治末ごろまで、東京市内屈指の桜の名所として知られていました。


明治中期 桜の名所の大賑わい
高速道路を取り除いて桜の並木に替えればこんな風景になるのだろう。
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当時はまだ下河原橋のドンドンが残っていて水位が高かったためこの界隈は洪水の名所でもあった。

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中之橋
2000年に新築された21階だての「トッパン小石川ビル」の正面にある。橋は同社ビル新築とほぼ同時期に近代的デザインに改装されている。路面はタイル舗装で、照明が埋め込まれているらしい。夜の景色もいいかもしれない。
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横引ゲート式防水扉
すごい重量級の装置が橋の両端に据えられている!!!

道路より護岸は高いから増水にあってもそこまでは洪水を防止できるはずだが、そのままでは橋の部分からの流水を防ぐことはできない。そこで万一の時は橋の両端をこの扉で締め切り、橋以外の部分の護岸と同じ高さまで堤防を嵩上げするしくみになっているのだ。初めて知った堤防の仕組みだった。
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次の小桜橋、西江戸川橋も同じ構造が採用されている。やはり洪水の名所だったのだな。
神田川逍遥会のみなさんの疑問
「いったい誰がこの扉を閉めることになっているのだろう?」


寄り道 印刷博物館(トッパン 小石川ビル内
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小休止のため立ち寄りました。
この界隈はトッパン、トーハン、朝倉書店など印刷・出版・製本など紙関連の企業が集まっているが、その理由を
一階のライブラリーの方にお尋ねしたところ、資料を紹介してくれたが、肝心なことは書いてありませんでした。
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小桜橋

桜の名所でピンク色の橋、そして名前が小桜橋………というところか。
歩道と車道の境界に小さな照明柱が並ぶデザインは中之橋と同じである。横引防水扉の設備もある。下の写真には道路と橋の境に扉を閉める時のレールも見える。
南詰はT字路で、目白通りを隔てた南側は出版取次大手・トーハン本社の正面になる



西江戸川橋
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デザインも色も小桜橋とそっくりの意匠だから区別しにくい。ただかなり古くからあったようだ。
橋の南詰に案内板があった。
この橋は、明治後期の資料によると、西江戸川町(現在の文京区水道二丁目)と牛込五軒町(現在の新宿区西五軒町)との間に架けられた木橋であったそうです。
橋が架けられた時期などは定かではありませんが、橋の名はこうした地名に因んで付けられたものと推察されます。
また、明治初期の資料にはこの橋の記載はありませんが、明治20年(1887年)頃の地図ではこの橋と見られる橋が現在よりやや上流に記されています。

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ところでこれはなんだ!!!
(画像をクリックして拡大してください)
護岸工事の折、西江戸川橋の上流・下流の目白通り側の岸壁にこのレリーフが作られた。
いつの時代のどこの風景か?
しかしこうまで汚れるとない方が良い。

明治期以降は、神田川のこの付近では紙の原料である「楮(こうぞ)」をさらす光景が見られたと言われ、紙産業発展の土壌があった。だから印刷・製本に関係する会社や工場が集中しているという見方があるが………。

神楽坂に初代が、「紙漉き源四朗(現在は「郎」)」と呼ばれた「相馬屋」が今でも営業している。明治の中期に、和半紙だった原稿用紙を尾崎紅葉の助言で洋紙にして売り出した。いわば原稿用紙の元祖だ。 夏目漱石、北原白秋、石川啄木、坪内逍遥といった文豪たちが愛用した。いつから紙漉きを始めたかはっきりしないが1659年には漉いていたという。

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石切橋

江戸時代から存在した橋で、名前はかつてこのあたりに石切り(石工)が住んでいたことからつけられたと伝わっている。歩道と車道の境界に小さな照明柱がならぶ。下流の中之橋、小桜橋、西江戸川橋と似たデザインであるが、塗り色がグレーである。


橋の南詰の案内板
石切橋の由来
この橋は、江戸時代の初期、寛文年間(1661〜73年)に架けられたといわれ、かつてこの橋の周辺に石工が住んでいたことからその名がついたともいわれますが、定かではありません。
明治時代中頃の記録によれば、この橋は長さ8間半、幅3間(およそ長さ15m、幅5m強)の木橋で、当時この付近では最も幅が広く大きい橋でした。
中流域にあたるこの付近では、昭和40年位まで神田川を江戸川という名で呼んでおり、この橋も元は江戸川大橋と呼ばれていたそうです。


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石切橋へ来るとどうしてもここへ足を運びたくなります。そこで後日一人でまいりました。
寄り道 「う」の字の「はし本」 
江戸前のうなぎやは看板に「鰻屋」とか「うなぎ屋」とか煩わしい表示はしない。ただ「う」と記すのである。石切橋の北詰にあるこの「う」の老舗は「石切橋 はし本」。仕舞うた屋風な造作が粋である。飛び込んだら予約札のある席を空けてくれた。30分待つのは覚悟でまずビールと肝焼きを注文した。天保6年(1835年)創業。江戸川沿いで、江戸時代からいまにつづく「う」は、いまや石切橋の「はし本」ただ1軒しか残っていないそうだ。うな重の上と肝吸いを注文した。女将の話によれば、ウナギは魚河岸では扱われない商品で、この一帯にウナギの卸商が集中し江戸市中に卸していた。生簀に生のウナギを大量に囲っていたということだ。こうして江戸川名物が生まれた。
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うなぎ屋の看板であるが、江戸時代は「江戸前大蒲焼」「江戸前御蒲焼」と記し、明治になって「御かばやき」とかわり、ながく伸ばした「う」の看板は大正初期かららしい。いずれにしろ江戸っ子は「うなぎや」とは呼ばなかった。
「う」の字「はし本」の割り箸袋にも「御蒲焼」とあった。
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見てよし、嗅いでよし、食ってよし
しめて4800円はうまかった。

寄り道 文京総合福祉センターの神田上水白堀跡
今年4月にオープンしたホヤホヤの施設だが、入口の脇の床が一部ガラス張りになっていて、上から地下に現存するかつての上水の石積みがのぞけるのだ。ここにあるのは「白堀」と呼ぶ蓋のない水路。昔の文献には記されていたものの実際に確認されたのは初めてのことだ。
神田川逍遥会のメンバーの一人Wさんがこの史跡に関する日経紙の記事を紹介してくれた。そしてFさんが私たちも行ってみようと言いだして、急遽、寄り道することになったものだ。わたしも最近は「神田川新情報」となれば目の色が変わる。
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場所は古川橋の北側の巻石通り沿いにある。この地は旧黒田小学校(のちの第五中学校)の跡地。(黒田小学校、明治11年公立小学「黒田学校」としてここに設立。当時、水道端2丁目(現水道2丁目)に居住していた黒田長知(黒田官兵衛の子孫、旧福岡藩主)が明治維新の功績による政府賜米2000石を東京府に献納して、小日向地区へ学校設立を請願、東京府はその篤志を永久に伝えるため、校名を黒田学校とした。卒業生の中には永井荷風、黒沢明などがいる。)
もともと白堀だが、明治政府がアーチ状石蓋(万年巻石蓋)をかぶせたためにこの通りは「巻石通り」と呼ばれている。
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床の埋め込まれたガラス板を透して見えるのは右図の部分である。
メンバーのTさんも言っていたが、古地図でそういうものがあると知っただけではなく実体験できたことが素晴らしかった。

このあたり、現在でも「水道町」の名があるが、現小日向二丁目あたりは江戸時代は小日向水道町といわれていた。近くにある町名案内版を見ると「小日向水道町」。「水道」と付されたのは、「神田上水」の「定浚―じょうざらえ―」(土ざらえを定時に行うこと)を命じられたからとあった。 神田上水に面した町方は、清潔に保ちよどみなく流すための役目が義務づけられていたのである。上水道が汚染されないよう高札を建てていた。高札の内容は「上水で水浴をしてはならない、魚鳥を取ってはならない、ごみ を棄ててはならない、物を洗ってはならない」の四項目が中心となっていた。

目白通りを南に越えたあたりも新宿区水道町だが、ここは文京区と違って、上水管理に携わる人が住んでいたのではない。上水に近いからこう呼んだのかもしれない。

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古川橋
古地図にある古い橋。将軍が鷹狩の際にここを通ったとか。
道路と橋の境にレールがある。横引ゲート式防水扉付きの橋である。
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掃部橋(かもんばし
難しい名前だが掃部とは律令制下の役所、役名で、宮中の儀場の設営や清掃を担当したもの。昔このあたりに掃部という紺屋があったという説がある。
この橋も古地図にある。
なお井伊直弼は「井伊掃部頭直弼」であったなぁ。
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華水橋
神田川25番目の橋である。
中之橋を過ぎていつの間にか川の左岸には集合住宅あるいは戸建て住宅が並ぶようになってきました。

神田川逍遥会の次回は第4回で江戸川橋からスタートします。

今日の反省会は「響」  西新宿野村ビル店 にて

真っ赤に落ちゆく夕日にかげる高層ビルを見下ろして………
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