桐野夏生『魂萌え!』 還暦を越えたオジサンのための「愛妻家入門』

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いつでも、どこにでも灰色のビジネススーツを着ていくような、まじめで実直だけがとりえの、平凡なサラリーマン、定年退職後、ゴルフと蕎麦打ちを楽しみ、健康診断も欠かさない63歳の隆之。
隆之の性格も好みもよく心得て、家庭を守り子どもを育て、地域と仲良く付き合い、夫を支えてきた59歳の妻・敏子。
私はこの種の組み合わせの夫婦ならもっとも身近にいるのでよく知っている。


戦後の民主教育を受けた世代であるから男女同権をわきまえているが結婚した頃は女房とは家庭を守るべきものであり、稼ぎは男に任せろと当然のように役割が決まっていた時代だ。妻の立場からしてもそれに反発することなく結婚とはそんなものかしらと思い込み受容していた。
この結婚観でどうにか継続している夫婦は私にはよ~くわかるのだ。

新婚の頃はお茶やお花や料理教室に通ったがいつの間にかやめて、みずから楽しみを見つける気構えも根気もなく、ただ、ときどき数人の同じ年代のお友達といわゆる井戸端会議があるくらいで世間知らずの専業主婦が「私の人生ってなんだったのかしら?」と妙に哲学めいたことをつぶやく。
そんなぼやきの心境だって私は充分にわかるわかる。

だいぶ前から 自分が生んで育て、愛おしくてたまらない存在だった子どもたちがまともな家庭を作れる資格もないのに家を離れ、自分に寄り添わなくなった。ときどき帰ってきては憎たらしいことをいわれ、ここでも「よい母親として家事育児に専念してきた。自分の時間とは何だったのだろう」と
述懐する寂しさでいっぱいの母の心境だって私にはわかりすぎるほどわかるのだ。

おそらく私だけではあるまい。
この世代の夫婦なんてみんなこんなもんだと言っても言いすぎにはならないだろう。さらに定年を迎える団塊の世代夫婦は今後急激に増加するのであるからこんな夫婦のカタチが日本中にあふれるのだ。

隆之が自宅の風呂場でポックリと逝ってしまう。心臓麻痺だ。
これだってありうる。
その隆之にはこれも一般にはありうる話なのだが女がいたことが発覚する。
女でなくとも女房にはいえないあるいは誰にも言えない、ちょっとうしろめたい楽しみや表面化しない過失なんてものはバブルに踊って、その崩壊も経験したサラリーマンにはだいたいあるものなのだ。

そして世間知らず、根っからの専業主婦であった敏子。夫に裏切られた貞淑な妻の敏子。手塩にかけた子どもたちに顧みられなくなった母の敏子。
悲しみ、孤独、不安、失望、に打ちひしがれながらも、おそるおそる夫の相手に対し女の熱い戦いを挑み、遺産相続にうるさく口を出す息子にはかわいそうだと思いながらも決然と臨む。それは隆之が死んだことで始まった新しい敏子である。カプセルホテルでエイリアンのような他人との出会い、夫の蕎麦打ち仲間との交流、古い付き合いの女友達の本音も見えてきて、今まで全く知らなかった世界が広がっていく。
これらの初体験をへて、59歳の彼女は今、飛翔する。妻でもない母でもない女一人だけのたっぷりある時間で新たな人生をきりひらく決意を固める。
新たな生命力が萌える。

桐野夏生、女性の自己確立をテーマに数々の話題作を発表してきた。 『柔らかな頬』は彷徨、 『OUT』は殺人、 『ダーク』は暴力、 『グロテスク』はセックスと、閉塞状況からの脱出方法は恐ろしく過激であり、小説自体が非日常の寓話風であったが、これは違う。どこにでもいるオバちゃん(いやもっと身近にいる方かもしれない)がどこにでもある日常生活の中で、地に足をつけた、だから、カッコイイとは言えないのだが、それでも間違いなくこれは「飛翔」である。そのプロセスは当たり前のようであって読者は次の展開が待ちきれないほど劇的なのだ。そして60歳前後のだれもが共感する熟年女性のうれしい「飛翔」だ。

私には桐野夏生の最高の傑作であった。2007年問題、それは団塊の世代が定年を迎えはじめる問題である。この急増する第二の人生を迎える夫婦の群れ、この問題層にたいする警告でもあり、啓蒙でもある。しかもいやになるほどリアリスティックな示唆である。
敏子の再スタートにおしげなく拍手を送るぞ、応援するぞ。

そして私が先に逝くようであれば
わが妻にこの書を捧げて
口では言えなかった感謝の気持ちと
「あとは魂萌えしてよろしい」
との思いを伝えることにしよう。

これを読んだオジサン族は必ず愛妻家になれるぞ

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この記事へのコメント

COCO2
2005年08月21日 20:23
COCO2です。ども。愛妻家入門というのはクリアでいい表現ですね!考えてみれば読者層の広い新聞連載を選んだというのも、鋭いセンスですよね。またお邪魔します!
ゆうき
2005年09月14日 09:53
すごく素敵な書評ですね・・・。
ちょっと感動してしまいました。
TBさせてくださいね。
2005年09月20日 14:31
TB、コメントを頂きありがとうございました。
私のような若年者が何を偉そうに…と思われそうですが、こちらからコメント頂いた時は本当に嬉しかったです。
そして主人公と同年代でいらっしゃるブログを拝見すると、やはり私のような世代とは違う、もっと身近にこの作品を感じ取られる感性をお持ちなのだなと思いました。この作品の前に伊藤整『変容』を読みましたが、この作品にとてもリンクしてくると思いますので、もしよろしければ是非こちらも・・・お薦めします。
BION
2005年09月29日 16:56
女は結婚して妻と呼ばれ、母と呼ばれるようになるわけですが、夫からも子供たちからも母親が「1人の女性である」というのは忘れられがちのように思います。この作品を読んで、主人公が依存的に生きるのでなく1人で歩いていこうとする姿や、女であることを取り戻す様は、とても可愛らしく素敵に思えました。
nemuri_neco
2005年10月23日 02:32
TBありがとうございました。
こちらからもTBさせていただこうとしたのですが、反映されませんでした。申し訳ありません。

>口では言えなかった感謝の気持ちと
>「あとは魂萌えしてよろしい」
ダメですよ、口にしては。
残された奥様は、その言葉が胸に染みて、魂萌え!どころではなくなってしまいます。
でも、配偶者との想い出と共に生きる方が、魂萌え!よりも、う~んと充実していそうですが…。(笑)
さくらこ
2005年12月05日 22:20
初めまして。
遅ればせながら、こちらの「魂萌え」の記事がとても面白く、私の感想は拙くてお恥ずかしいとは思いつつ、ぜひ相互TBさせていただきたく思ったのですが、自分のブログで通常のTB作業をしても、こちらに表示されないようです。
何か操作など異なる点があるのでしょうか?
2005年12月06日 10:22
さくらこさんへ
私にも解りませんがブログ同士で相性な悪い組み合わせがあるようです。さくらこさんのブログURLも表示されていませんでしたのでますます方法がわかりません。
2005年12月06日 18:18
よっちゃん、(馴れ馴れしい感じですね、失礼いたします^^;)
昨日URLを入れ忘れたのか、入れたにも関わらず相性の問題で表示されていなかったのか、自分でも記憶がありません。
もう一度TBもトライしてみたのですが、やはりだめのようです。

実は、 こちらにTBされている中から赤ずきんさんの所へTBしてみました。
間接的にはよっちゃんとも繋がりが出来たようです。
「あとは魂萌えてよろしい」
は、名文句ですね。
泣けちゃいますね。
だんな様のこと、ずっと忘れられなくなりますよ。

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